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- 1918年
(大正7年) - 需要の伸びに対応するため
若鶴酒造株式会社を設立
- 1918年
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- 1925年
(大正14年) - 若鶴ウイスキーの生みの親
二代目稲垣小太郎が社長に就任
- 1925年
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- 1927年
(昭和2年) - 3月 昭和金融恐慌発生
- 1927年
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- 1945年
(昭和20年) - 8月15日 終戦
- 1945年
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- 1947年
(昭和22年) - 若鶴醗酵研究所を設立し
蒸留酒部門への第一歩を踏み出す
- 1947年
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- 1952年
(昭和27年) - ウイスキー製造免許を取得し
本格的に蒸留酒部門へと進出
- 1952年
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- 1953年
(昭和28年) - 5月11日 蒸留塔からの出火
- 1953年
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- 1954年
(昭和29年) - 火災からの復興
蒸留塔に最新の蒸留器を新設
- 1954年
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- 1959年
(昭和34年) - 蒸留塔を本社北側に移転し
新たなウイスキーの蒸留に臨む
- 1959年
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- 1960年
(昭和35年) - 5月 三郎丸1960蒸留
- 1960年
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大正7年10月
需要の伸びに対応するため
若鶴酒造株式会社を設立
第一次世界大戦時の空前の好景気により酒類の需要が急激に増加。その需要に対応するため、若鶴酒造株式会社を設立するとともに醸造倉庫の増設など、新たな設備の充実を図った。
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大正14年6月
若鶴ウイスキーの生みの親
二代目稲垣小太郎が社長に就任
若鶴酒造創設者である初代稲垣小太郎の跡を継いで、長男彦太郎が二代目小太郎を襲名し社長に就任。初代のころより「品質本位」を旨として精進潔斎することにより、全国的な評価を得る。
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昭和22年9月
若鶴醗酵研究所を設立し
蒸留酒部門への第一歩を踏み出す
第二次世界大戦中から続く食糧管理制度により、酒造米が厳しく制限され石高が低減。この局面を打開するため、蒸留酒部門への進出を決意し、若鶴醗酵研究所を設立。
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昭和27年7月
ウイスキー製造免許を取得し
本格的に蒸留酒部門へと進出
1949年にアルコール製造免許を、続いて1952年にウイスキー、ポートワインの製造免許を取得。これにより蒸留酒部門への本格的進出体制が整う。
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昭和28年5月11日
蒸留塔からの出火
5月11日の深夜に蒸留塔から出火し、製造設備他6棟、635坪を焼失。
今もその原因は特定されていない。
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昭和29年
火災からの復興
蒸留塔に最新の蒸留器を新設
前年に蒸留塔を焼失したが、社長以下全従業員や地域住民の協力を得て短期間で再起操業を果たす。再建した蒸留塔には、当時、全国で5社しか所有していなかったフランスのメル社のアロスパス式蒸留器が導入された。
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昭和34年10月
蒸留塔を本社北側に移転し
新たなウイスキーの蒸留に臨む
最新鋭の設備を導入した蒸留塔を、本社北側に移転し、操業を続ける。
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昭和35年5月
三郎丸1960蒸留
蒸留塔を移転した後、アロスパス式蒸留器で最初に蒸留されたのが、シングルモルトウイスキー「三郎丸1960」と考えられる。