若鶴ウイスキー生みの親
二代目稲垣小太郎
本名稲垣彦太郎、1890年(明治23年)8月11日生まれ。
父である初代小太郎が1910年(明治43年)に譲り受けた酒造業を父の片腕となって盛り立てます。「品質本位」を第一として日夜精進潔斎に努め、若鶴酒造は次第に全国的な評価を得るようになりました。1925年(大正4年)父の跡を継ぎ2代目小太郎を襲名し、若鶴酒造の社長に就任。
世界規模の金融恐慌や戦争など大きな時代のうねりの中でも果敢に挑戦を続け、1952年(昭和27年)にウイスキーの製造免許を取得。「若鶴サンシャインウイスキー」の発売にこぎつけます。その後災厄に遭遇するも、小太郎の熱い想いを込めた若鶴ウイスキーは、地域の人々や豊かな自然に支えられ、今日も多くのお客様にご愛飲いただいています。
稲垣小太郎の
回想記1
水へのこだわり
灘、伏見の酒造郷を視察した際、「良酒は良水から生まれる」と感得。昭和2年の不況のさなかであったが、巨費を投じ深井戸を掘削。庄川の清冽な伏流水を使用することで大きく品質が高まった。
(若鶴酒造株式会社(1963)『風雪50年』)
昭和2年3月に金融大恐慌が発生。設備を拡充した際であったので資金繰りに大変な苦労を味わった。不景気のため1千石近い酒が余り、自ら東京に走って売り込みに狂奔したものの売掛金の大半が回収不能となり、徒労に終わった。
(若鶴酒造株式会社(1963)『風雪50年』)
若鶴酒造のある砺波市三郎丸は、庄川の流域に広がる扇状地、砺波平野の水豊かな散居村です。庄川の水は、烏帽子岳に源流を発し、合掌の里五箇山を通り、富山湾へと注いでおり、地中深くには、花崗岩により磨かれた清冽な伏流水が流れています。
金融大恐慌の対応に東奔西走する厳しい状況であったにもかかわらず、小太郎は先を見据え、良水を安定的に得るために巨費を投じて、三郎丸の地で深井戸を掘削したのです。
昭和7年撮影 若鶴酒造醸造用水井戸
稲垣小太郎の回想記2
終戦と決意
1945年8月1日富山大空襲、富山支店閉鎖。8月15日終戦。苦労を重ね築き上げた酒販網の特約店は消滅。米の統制による原料米不足により生産高は明治以来の最低を記録した。行き詰った局面を打開するため、蒸留酒部門への進出を決意。若鶴醗酵研究所においてアルコール製造の調査研究をさせた。1949年アルコール製造免許取得。1952年にウイスキー、ポートワイン製造の免許を取得した。
(若鶴酒造株式会社(1963)『風雪50年』)
戦時下にあり深刻な食糧難に見舞われていた日本では、1942年(昭和17年)、米の価格や流通などを政府が管理統制する食糧管理制度が敷かれます。酒米も例外ではなく、原料を自由に入手することは困難になり、生産量は激減しました。
1945年終戦。まだ戦後の混乱が残るなか、1947年に若鶴酒造は若鶴醗酵研究所を設立。研究所の顧問には酒類総合研究所の勝目英氏を、技士には満州のキッコーマンで工場長をしていた深澤重敏氏を迎えました。そこで統制外であった菊芋の生産によるアルコール製造研究を始めるなど、醗酵工業への第一歩を踏み出したのです。
稲垣小太郎の回想記3
災厄、突然の試練と再興
火事の後、農繁期にも関わらず連日、数百名の村人が来てくださり、焼け跡の整理に奉仕をいただいた。その後、半年かからずに再建に成功。10月末からの清酒酒造期に間に合わせることができた。(若鶴酒造株式会社(1963)『風雪50年』)
蒸留設備の復興にあたっては可能的最大限に最新の設備を導入した。当時、全国で5社しか所有していなかったフランスのメル社のアロスパス式蒸留器を新設した。
(若鶴酒造株式会社(1963)『風雪50年』)
ウイスキーの製造免許を取得し製造設備も整った矢先、1953年5月11日の深夜に蒸留塔から出火し、製造設備他6棟、635坪を焼失。その原因は今もわかっていません。
従業員一同の悲嘆は測り知れないものがありましたが、小太郎はこれも天の試練であると考え、再興に努力しました。地域の人々からの全面協力もあり、なんと半年かからずに再建に成功。10月から始まる酒造期に間に合わせることができたのです。さらに復興にあたっては、最新の蒸留設備を導入するなど、以前にも増して充実した若鶴を実現させていきます。
火災の記憶
(当時14歳・男性)
そのころは建物が少なく、蒸留塔が自宅からみえた。
父親が夜お手洗いに行ったときに火事を発見、
家族みんなで駆け付けた。
そのときにはすでに火の海となっていた。
当時、私は14歳だったが子供から大人まで手の空いている人はみんなで火事の後片付けをした。
誰の指示ということもなく自然にそうなったと記憶している。
トラックが農協、若鶴と製材所をやっていた家にしかなく、
村のトラックを総動員してがれきを載せ、一緒に乗って運んだ。
当時、若鶴は子供たちによい遊び場になっており樽から樽へと飛び移って遊んでいた。
蒸留塔の記録(火災前・火災後)
蒸留塔の記憶
(若鶴酒造営業部員)
営業のためあまり内部に入ることがなかったが、大変古い建物でところどころ床板がなく、非常に高度感があり、怖かった。
(若鶴酒造CEO稲垣晴彦)
老朽化により20年ほど前に蒸留塔を取り壊した。非常に大きな建物であったことを記憶している。
ウイスキー販売の記録
1960年サンシャインウイスキー初発売。名称は公募で決まった。
当初は年間140本しか売れなかったという。
(1983/9 痛快!地ウイスキー宣言)
サンシャインウイスキーの名称は戦後の全てを失った日本で水と空気と太陽光からなる蒸留工業によりまた日を昇らせようとの想いから名付けたともいわれる
1952年10月1日~1953年9月末日の営業報告書に、角瓶(500CC)と小瓶(180CC)のサンシャインウイスキーの売り上げと瓶の仕入れの記録がある。火災で製造設備を失った一方で、幸い製品の被害はわずかであったという。
(第四拾期営業報告書)
サンシャインウイスキーを発売し始めたころの年賀状
若鶴商品たち(年代不明)
ウイスキーの保管記録
1960年(昭和35年)5月蒸留のモルト原酒の保管記録がある。
(若鶴酒造株式会社(1990) 『平成2年度酒類等管理簿』)
今皆様にお届けするシングルモルトウイスキー「三郎丸1960」の保管記録が、この管理簿に載っています。